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JINSOブライダルカウンセラー 婚活塾ブログ

2025/01/24

戦国のベストカップル

 こんにちは。今日は戦国時代のベストカップルについて書いてみたいと思います。先日ある本を読んでいたら、「戦国ベストカップル賞」という見出しが目に入りました。何のことだろうと思ってその本を読み続けますと、それは、宇喜多秀家と豪姫のことでした。豪姫のことは多少は知っていましたが、宇喜多秀家についてはあまり知りませんでしたが、その記事に書いてあった、二人の思いの深さに改めて感動しました。

 豊臣秀吉は子供がおらず、親友の金沢城主の前田利家から生後間もない彼の四女を養女にもらいました。それが豪姫です。秀吉夫妻の豪姫に対する愛情があまりに深いので誰が豪姫と結婚するのかいつも話題になっていました。多くの大名の政略結婚のために我が息子と結婚して欲しいとの申し出を秀吉はすべて断りました。最終的に秀吉が選んだ婿は宇喜多秀家でした。

 秀家の父親は岡山城主の宇喜多直家でした。直家が病気で亡くなる際に、秀吉は枕元に呼ばれ、当時幼かった秀家を頼むと言われ、それを引き受けました。秀家は顔だちもよく、今風に言えばイケメンでありまた武芸、学問、和歌や舞にも優れ、非の打ちどころがない好青年でした。秀家の名前は秀吉の秀の字をもらっています。秀吉は秀家に帝王学を学ばせ、立派な大名に育て、自分が最も愛する豪姫と結婚させました。

 秀家と豪姫の結婚は政略結婚そのものでしたが、二人は深く愛し合いました。あの時代は側室を数人置くことが当たり前でしたが、秀家は豪姫のみを愛し続けたそうです。秀家は秀吉のバックアップを受けて20代の若さで豊臣政権の中枢である五大老の一人に抜擢されます。秀家が26歳の時に秀吉が亡くなります。その時、秀吉の晩年に生まれた秀頼を頼むと五大老に何度も何度も頼んだそうです。

 秀吉の死から2年後に関ヶ原の戦いが始まり、秀家は秀吉への恩返しのために、秀頼を守るという姿勢を貫き通します。この戦いで秀家は戦死もせずに生き残りますが、戦後処理で科されたのは、八丈島への島流しでした。結局宇喜多家は取りつぶされ、妻の豪姫は加賀前田家に引き取られます。八丈島と金沢は500キロも離れています。秀家は息子二人、身の回りの世話をする数名の家臣と一緒に八丈島へ流され、そこで生活しました。

 貧困のどん底であえぐ秀家を助けたのは、豪姫だったそうです。前田家を通じて、八丈島で暮らす彼らへの援助を申し出て白米70俵、金子35両、衣類雑貨、医薬品の援助を1年おきに行ったようです。豪姫が60歳で亡くなるまで、ひたすら500キロ離れた秀家との再会を祈ってつつましく暮らしたそうです。結局二人の再会は実現しませんでしたが、豪姫の願いが通じたのか、秀家は八丈島で50年近く生きながらえて、当時としては超長生きである83歳まで生きたそうです。(人生に悩んだら『日本史』に聞こう、むすいこたろう、白駒妃登美著、祥伝社参照)

 この世での再会は実現しませんでしたが、あの世ではきっと最高の幸せをつかんだのかもしれません。この本でベストカップル賞と言った意味がよく分かりました。

皆さんも婚活で頑張って現代のベストカップルになってみませんか?

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